こびとく日誌

クツをつくりながら考えたこと。晴耕雨読な日々のこと。

ウグイス初音、そして母が逝く

2/23 朝ラン中に近所の緑地でウグイスのぐぜりを聞く。

ケッケッケッ、ケキョとか鳴いていた。

2/25 朝ラン中に同じ場所で(つまり同じ個体と思う)今度ははっきりとさえずりを聞く。

ホーホケキョッ

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2月28日午前に母が息を引き取りました。

元旦の夜に緊急搬送され入院。その時は1週間に一度だけは面会できたのですが翌週にはコロナ感染拡大で一切面会禁止に。

回復を祈るしかない日々でしたが病気と戦ってくれるはずのお医者様がもう医療としてできることがないとのことで、病院にいる限り面会はできないので退院して入居していた老人ホームに戻ることをお願いしました。

退院って病気が治ってするものだと思っていたけれど、もうできることがなくなってする退院もあるのだなぁと。

ホームでも面会の制限があり、時間は5~10分とのことでしたが(実際には15~20分とらせていただけました)毎日面会できました。

コロナで自由に会えなかった2年分を取り戻すように。

全ての予定をキャンセルした日々、急変の連絡に怯えながらも朝ランして、面会の帰りには双眼鏡を首からぶら下げて馬鹿みたいに歩き回っていました。

ミコアイサとクイナをみつけてテンション上げてました。

そうでもしないとどうにも落ち込んでしまいそうで。

父が亡くなったときも思いましたがランニングと鳥見はわたしにとっての『阿伽陀』

kobitoku.hatenablog.com

初七日の日は大山山頂にて母を偲ぶ。(海抜ゼロメートルから走りました🏃🏻‍♀️🏃🏻‍♀️🏃🏻‍♀️)

できるだけ高いところで母に呼びかけてみたかった。

 

亡くなってから火葬までは1週間あったので安置所に面会に行けました。

会いに行くたびに棺に思い出の写真や手紙、愛用品を入れました。

父が亡くなったあと1年間は金沢で一人暮らしをしていた母ですが認知症があったので神奈川に呼び寄せ、サ高住→グループホーム→老人ホームと介護度に合わせて転居。

木曜を母の日と決め、毎週通っていました。

https://www.instagram.com/explore/tags/木曜日の母/

だから思い出はいっぱい。

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一緒に編んだ花モチーフのおざぶも棺に入れました。

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ハワイアンキルトのコインパースはわたしと妹とお揃いで使います。

 

認知症って人によって症状や進行も様々で悩むことが多いです。

最初の頃はわたしも母にキツく当たってしまっていました。

介護で悔いがあるとしたらあの頃の自分です。

今、悩んでいる人へ。ブログ村認知症カテゴリーのブログがヒントになるかもしれません。

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そしてコロナ禍の看取りについて、時系列にしっかり記録されていた安藤さんのnoteが参考になります。

note.com

思うに、レースのためというより、いつでも戦う準備ができるように日々走っているのかもしれない。