こびとく日誌

クツをつくりながら考えたこと。晴耕雨読な日々のこと。

終戦記念日

8月15日。終戦記念日
わたしたちが子供の頃は、広島長崎の原爆の日が登校日だったりして、戦争にまつわる話をきく機会も多かったように思う。最近ではそういう登校日はなくなったときく。
テレビで特番などは相変わらず放映されてはいるが、年々、トーンダウンしている感じは否めない。
わたしが育った昭和40年代は戦後20年ちょっとの頃。平成で換算してみると、終戦を迎えたのはすぐそこだったんだなぁと思う。デパートの前に片手足を失った"兵隊さん"が敷物を敷いて座っているのを見かけることもあった。母からは「見てはだめ」と手を強く引かれたことを記憶している。

祖父は戦争のときの話はほとんどしたがらなかったという。
わたしが保育園の頃に亡くなったので祖父から当時の話はきいたことがない。祖父の没後、ときどき"兵隊さん"(祖母はこう呼んでいた。祖父の部下の方々である)が仏壇に参りにきたりしていた。その方々はごくふつうの"おじさん"で兵隊さんの格好をしていないのにどうして"兵隊さん"なんだろうかと不思議だった。

父は石川の人なので戦時中のことを尋ねても戦災にあった話は出て来ない。なんとなくものがなくなったかなぁということと、都会から疎開してきた人がいっぱいいたという思い出くらいしかないようだ。(昭和10年生まれ)

だからわたしのきいた戦争体験のほとんどは祖母(母方の)からのもの。
台湾で生まれ育った祖母、祖父の出征のときの話。その日のモノクロ写真も見せてもらった。
そして話の中心は戦争に負けて、日本に引き揚げてからの苦労話である。だから戦時中というよりは戦後のことが中心。
台湾のことを「常夏のふるさと」と呼び、日本本土のことを「見ず知らずの日本へ」と手記に書いていた祖母。
そんな祖母もすでに93歳。
当時の話を直にきけるチャンスももうあまりないかもしれない。

やっぱり風化させてはだめだなと思ったので、今日はこんなことを書いてみました。


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食べ切れないので、各方面にお裾分け。