こびとく日誌

クツをつくりながら考えたこと。晴耕雨読な日々のこと。

クリストのアンブレラ

昨日、ほぼ日でクリストの公開講座のUST中継があった→
うっかり開始時間を忘れていたので気づいて観たときには最後の質疑応答の時間になってしまっていたが素晴らしかった。クリスト氏、相変わらずエネルギッシュで20年前と全く変わっていなかった。

1991年10月、日本とカルフォルニアでのプロジェクト"アンブレラ"を皆さんは覚えていますか?

当時のアルバムより

こびとく、このプロジェクトに参加していました!

当時は当然、ブログなどもやってないし、クツクツ通信も創刊前・・・。このときの体験は親しい友人以外には話すこともなかった。ああ、だけどやっぱり急激に懐かしく思い出したのでちょっと書いてみます。
もう場所もはっきり思い出せないけれど、常陸太田駅から確かタクシーに乗って現地に向かったはず。長靴と寝袋を持って・・・。廃校になった学校の体育館に寝泊まりし、昼は支給されるお弁当。朝と夜は作業の帰りにバスが立ち寄ってくれる食料品店でおにぎりやパンなどを購入。1週間から10日くらいは滞在していたように記憶している。
朝、まだ薄暗いうちにバスで指定のポイントまで運ばれるわたしたち。それぞれの担当地区で降ろされる。何もない畑の中で夜明けを待つ。高さ6メートル、重さ230キロの閉じられた傘をみんなで運び、台の上に設置する作業を地元の建設業者の方々と一日中こなす。数日かけて全ての設置が終わり、そして今度はその傘を開くという楽しい作業が待っていた。
しかし、その年は台風の当たり年で、荒天が続き、開く作業は延期となった。予定より延びる滞在。仕事のある人たちは後ろ髪をひかれつつも帰っていったが、当時こびとくは失業中。週に1度のアルバイトだけだったので宿泊していた学校に一台だけあった公衆電話(それもカード式ではないコイン式の)からバイト先に連絡し、滞在を延ばした。
晴天待ちの日々は体育館に寝袋に半分入ったまま寝そべり、何もやることがなく、日長一日ゴロゴロしていた。ああ、なんて自由だったんだろう。
携帯電話もなく、どこともつながらず、何もすることもなく、同じくプロジェクトに参加している人たちとバカな話しながら時を過ごした。そんなある日、クリスト氏のはからいで全員が集められ、彼の講演をきくチャンスが与えられた。
このプロジェクトが始まってからのことや、いろいろ質疑応答などもあったような気がする。だけど内容はあまり記憶に残っていない。覚えていることというと、地元の土地の所有者ひとりひとりに許可をもらうため尋ね歩いた時に、どの家でもグリーンティーをごちそうになったという話。苦笑されていた。
それから、台風で傘を開くのが延期になっている件で「一体いつ開くのか?」とマスコミや地元関係者から詰め寄られ、「これはあなたたちのものではなく、私の作品だ」と自分に権限があることをきっぱり名言した話。
実は、村おこし的な感じにもなってきていて「アンブレラ音頭」みたいなのものがつくられたりしていた。便乗商売も出現していたのも事実。やっぱりアートいうものをはき違えてた部分があったのだと思う。
そのとき、わたしが感じたのは、これはクリストがお金とたくさんの人の力をかけてやる彼の壮大な大人の遊びなんだなぁということ。奥さんのジャンヌも2005年のインタビューの中で「何の意味があるのかよく聞かれるんだけど、意味なんてないのよ。だって、ただのアートですもの」と答えている。
そしてついにアンブレラを開くという日がきた。光り輝く晴天の日、カバーをはずし、ハンドルを回すと徐々に大きく開いてゆく。みんなで交替しながら笑顔で次々と傘を開いていった。全てが開いた様子をみて、なぜクリストが晴天にこだわったのかよくわかった。スケジュールのことなんて関係ない。スケジュールなんて遅れたって全然かまわなかったのだ。(日本人はスケジュール通りに進めることばかりに熱心になりすぎる)
そして何よりもワクワクさせてくれたのはこれがこの場所だけではなくて、遠く離れたカリフォルニアでも同時に行われているということ。日本は青いアンブレラ。そしてカリフォルニアは黄色のアンブレラ。

このとき知り合った大阪、富田林のみっこちゃん、元気かなぁ・・。

全員に配られた1ドルの小切手
小切手だからクリストの直筆のサイン入り
そして日米両方のアンブレラのハギレは我が家のお宝です